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3分でわかるハワイ史②



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終わりの始まり

1840年憲法、1852年憲法によって、ハワイの土地制度を西欧式の土地制度へ改革する土地制度革命(マヘレ)が行われた。白人達にとっては、新たな時代の幕開けであり、ネイティブハワイアンにとっては、終わりの始まりとなった。
かつて、ネイティブハワイアンはオハナ(タロの根と家族の一団 )と共に栄えてきた。しかし、この土地制度革命がこの関係を断ち切ってしまった。

今まで土地を私有するという概念のなかった平民も、西欧式の土地所有制度に基づき、自由に土地を売買できるようになると、19世紀の終わりには、自由な売買の結果、ネイティブハワイアンの保有する土地の4倍の土地を白人が支配することになった。

1847年にカルフォルニアで金が発見されゴールドラッシュが起こると、大量の人間が西海岸になだれ込み、その一部が太平洋に流れていた。
ハワイは太平洋貿易の中間地点として栄え、商船は途切れることなく訪れた。
・・・その結果、ハワイにて天然痘が猛威を振るい、免役の無かったネイティブハワイアンが多く死んだ。

1820年頃から栄えていた捕鯨産業も、1859年になると、油田がペンシルバニアで発見されたことで失速していったこと、ゴールドラッシュ、南北戦争によってハワイ産の作物が注目されたことにより、商人達は海ではなく土地に目を付け初め、サトウキビプランテーションが大いに繁栄した。

1852年から労働力としての移民を招き初め、1868年に、日本人初の移民である元年者と呼ばれる日本人が到着した。
前王が後継者を指名せずに1874年2月3日に亡くなると、次の王として、カラカウアが議会によって王として選出された。
カラカウアはアメリカと交渉の末、アメリカとハワイ間におけるサトウの関税を撤廃した。これにより、ハワイ産のサトウはアメリカ西海岸で大いに売られることとなったが、同時に、サトウキビプランテーションの労働者の確保が深刻な問題となった。

1880年初頭にはネイティブハワイアンの人口は激減していて、さらにハンセン病の蔓延がそれに拍車を掛けていた。




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