3分でわかるハワイ史(全文)
ちょこちょこハワイについて書いていくのに、歴史的な背景を知っていると理解しやすいので、乱暴にハワイ史をまとめました。
1805年に、カメハメハ大王はハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国した。
当初、ハワイ王国は英国との関係を重視していた。
これはユニオンジャックが含まれたハワイ王国の国旗に見る事ができる。
ネイティブハワイアンは、アフプアアと呼ばれる地域単位を基礎として生活していた。
アフプアアとは、川を中心とした生活単位であり、その形状は山頂を頂点とし、沿岸部を底辺とする三角形で、住民達はこの地域内で、生活に必要な物の全てをまかなうことができた、つまり、住民は山で植物を採取し、谷でタロイモなどを栽培し、そして沿岸部で魚や海草などを得て生活していた。
住民たちは土地を耕す労働を提供し、収穫物を得た。 アフプアアは、アリイ(酋長)によって支配され、コノヒキ(水門の管理人)が管理していたが、土地は神々に所属するものとされ、住民のために使われなければならず、土地は取引の対象ではなかった。
また、ネイティブハワイアンは宗教的掟であるカプに従い生活し、カプは統治に利用されていた。
カプは、生活のあらゆる場面、すなわち、政治、宗教的崇拝、性行為、土地利用、農耕そして食事、遊びにさえ及んでおり、これを破れば死を持って償うこととされた。
後に、カメハメハ二世がカプを自ら侵すことで、事実上、法としての効力が失われていた。
1840年には、ハワイ王国初めての憲法が制定され、立憲君主国となる。
この頃から、キリスト教の宣教師によって、ハワイ王国の政治は影響を受け始め、白人の商人がハワイに流入し、土地の取引で問題を起こし始める。
かつて、ネイティブハワイアンはオハナ(タロの根と家族の一団 )と共に栄えてきた。しかし、この土地制度革命がこの関係を断ち切ってしまった。
今まで土地を私有するという概念のなかった平民も、西欧式の土地所有制度に基づき、自由に土地を売買できるようになると、19世紀の終わりには、自由な売買の結果、ネイティブハワイアンの保有する土地の4倍の土地を白人が支配することになった。
1847年にカルフォルニアで金が発見されゴールドラッシュが起こると、大量の人間が西海岸になだれ込み、その一部が太平洋に流れていた。
ハワイは太平洋貿易の中間地点として栄え、商船は途切れることなく訪れた。
・・・その結果、ハワイにて天然痘が猛威を振るい、免役の無かったネイティブハワイアンが多く死んだ。
1820年頃から栄えていた捕鯨産業も、1859年になると、油田がペンシルバニアで発見されたことで失速していったこと、ゴールドラッシュ、南北戦争によってハワイ産の作物が注目されたことにより、商人達は海ではなく土地に目を付け初め、サトウキビプランテーションが大いに繁栄した。
1952年から労働力としての移民を招き初め、1868年に、日本人初の移民である元年者と呼ばれる日本人が到着した。
前王が後継者を指名せずに1874年2月3日に亡くなると、次の王として、カラカウアが議会によって王として選出された。
カラカウアはアメリカと交渉の末、アメリカとハワイ間におけるサトウの関税を撤廃した。これにより、ハワイ産のサトウはアメリカ西海岸で大いに売られることとなったが、同時に、サトウキビプランテーションの労働者の確保が深刻な問題となった。
1880年初頭にはネイティブハワイアンの人口は激減していて、さらにハンセン病の蔓延がそれに拍車を掛けていた。
1880年代において、ハワイ諸島にいた少数の日本人は、従順な労働者として、かなり高い評価を得ていた。それも、彼らの常にお風呂のことを考えていることと、奇妙な味の食べ物を好んでいたこと考慮したとしても、である。
中国人の欠点が何であろうと、彼らの利点は数の多さであった。ただ、彼らは契約もなしにやってきて、都合の悪いときにもやってきて、毎年どんどん増加し、1880年代中頃には、プランテーションでさえ持て余すほどやってきて、ついには彼らの入国が規制された。
彼らはあくまでも中国人であり続けたからである。
カラカウアは世界中を旅し、視察し、歴史上初の「世界を旅した君主」となった。カラカウアが日本を訪れた際には、ハワイ王国と大日本帝国とで、太平洋君主国家連合国となることと、皇子とカラカウアの5歳の姪のカイウラを結構させることを明治天皇に提案している。
その団体に、過激な私的武装組織も合流し、王に革命を迫り、銃剣憲法と呼ばれる、新たな憲法が制定された。そして、カラカウアは実質的権能を奪われた。
病を患っていたカラカウアは、再び旅に出たが、1891年の1月にサンフランシスコで54歳で亡くなった。
そして新たな君主としてリリウオカラニ女王が誕生した。 王党派の者達によって王の復権を目指す運動に危機感を抱いたアメリカ合衆国への併合派の十数名は、アメリカ合衆国の在ハワイ大使と協力し、1893年1月にアメリカ海兵隊を上陸させ、ハワイ王国を転覆、暫定政権を樹立させた。
暫定政権はアメリカへの併合を望んでいたが、アメリカ合衆国はそれを拒否したため、1994年7月4日に暫定政府はハワイ共和国として名前を変え、ハワイ王国は消滅した。
ネイティブハワイアンの暮らし
1778年1月18日、後にポリネシアン・トライアングルと呼ばれる地域の北部頂点を航行中、ジェームズ・クックは、ハワイ諸島を発見した。1805年に、カメハメハ大王はハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建国した。
当初、ハワイ王国は英国との関係を重視していた。
これはユニオンジャックが含まれたハワイ王国の国旗に見る事ができる。
ネイティブハワイアンは、アフプアアと呼ばれる地域単位を基礎として生活していた。
アフプアアとは、川を中心とした生活単位であり、その形状は山頂を頂点とし、沿岸部を底辺とする三角形で、住民達はこの地域内で、生活に必要な物の全てをまかなうことができた、つまり、住民は山で植物を採取し、谷でタロイモなどを栽培し、そして沿岸部で魚や海草などを得て生活していた。
住民たちは土地を耕す労働を提供し、収穫物を得た。 アフプアアは、アリイ(酋長)によって支配され、コノヒキ(水門の管理人)が管理していたが、土地は神々に所属するものとされ、住民のために使われなければならず、土地は取引の対象ではなかった。
また、ネイティブハワイアンは宗教的掟であるカプに従い生活し、カプは統治に利用されていた。
カプは、生活のあらゆる場面、すなわち、政治、宗教的崇拝、性行為、土地利用、農耕そして食事、遊びにさえ及んでおり、これを破れば死を持って償うこととされた。
後に、カメハメハ二世がカプを自ら侵すことで、事実上、法としての効力が失われていた。
1840年には、ハワイ王国初めての憲法が制定され、立憲君主国となる。
この頃から、キリスト教の宣教師によって、ハワイ王国の政治は影響を受け始め、白人の商人がハワイに流入し、土地の取引で問題を起こし始める。
終わりの始まり
1940年憲法、1952年憲法によって、ハワイの土地制度を西欧式の土地制度へ改革する土地制度革命(マヘレ)が行われた。白人達にとっては、新たな時代の幕開けであり、ネイティブハワイアンにとっては、終わりの始まりとなった。かつて、ネイティブハワイアンはオハナ(タロの根と家族の一団 )と共に栄えてきた。しかし、この土地制度革命がこの関係を断ち切ってしまった。
今まで土地を私有するという概念のなかった平民も、西欧式の土地所有制度に基づき、自由に土地を売買できるようになると、19世紀の終わりには、自由な売買の結果、ネイティブハワイアンの保有する土地の4倍の土地を白人が支配することになった。
1847年にカルフォルニアで金が発見されゴールドラッシュが起こると、大量の人間が西海岸になだれ込み、その一部が太平洋に流れていた。
ハワイは太平洋貿易の中間地点として栄え、商船は途切れることなく訪れた。
・・・その結果、ハワイにて天然痘が猛威を振るい、免役の無かったネイティブハワイアンが多く死んだ。
1820年頃から栄えていた捕鯨産業も、1859年になると、油田がペンシルバニアで発見されたことで失速していったこと、ゴールドラッシュ、南北戦争によってハワイ産の作物が注目されたことにより、商人達は海ではなく土地に目を付け初め、サトウキビプランテーションが大いに繁栄した。
1952年から労働力としての移民を招き初め、1868年に、日本人初の移民である元年者と呼ばれる日本人が到着した。
前王が後継者を指名せずに1874年2月3日に亡くなると、次の王として、カラカウアが議会によって王として選出された。
カラカウアはアメリカと交渉の末、アメリカとハワイ間におけるサトウの関税を撤廃した。これにより、ハワイ産のサトウはアメリカ西海岸で大いに売られることとなったが、同時に、サトウキビプランテーションの労働者の確保が深刻な問題となった。
1880年初頭にはネイティブハワイアンの人口は激減していて、さらにハンセン病の蔓延がそれに拍車を掛けていた。
移民の国
サトウキビプランテーションは、従順な労働者としての移民を欲していた。ネイティブハワイアンは、賃金が安くても働くが、彼らは仕事をまじめに取り組まなかったし、ポルトガル人は勤勉であったが、彼らは賃上げを過剰に要求し、土地を買うお金を貯めるために働いているだけであった。1880年代において、ハワイ諸島にいた少数の日本人は、従順な労働者として、かなり高い評価を得ていた。それも、彼らの常にお風呂のことを考えていることと、奇妙な味の食べ物を好んでいたこと考慮したとしても、である。
中国人の欠点が何であろうと、彼らの利点は数の多さであった。ただ、彼らは契約もなしにやってきて、都合の悪いときにもやってきて、毎年どんどん増加し、1880年代中頃には、プランテーションでさえ持て余すほどやってきて、ついには彼らの入国が規制された。
彼らはあくまでも中国人であり続けたからである。
カラカウアは世界中を旅し、視察し、歴史上初の「世界を旅した君主」となった。カラカウアが日本を訪れた際には、ハワイ王国と大日本帝国とで、太平洋君主国家連合国となることと、皇子とカラカウアの5歳の姪のカイウラを結構させることを明治天皇に提案している。
国家転覆
宣教師開拓団として、ハワイ王国に到着した者の子孫が、1887年にハワイ王国を改革する白人の団体を結成した。その団体に、過激な私的武装組織も合流し、王に革命を迫り、銃剣憲法と呼ばれる、新たな憲法が制定された。そして、カラカウアは実質的権能を奪われた。
病を患っていたカラカウアは、再び旅に出たが、1891年の1月にサンフランシスコで54歳で亡くなった。
そして新たな君主としてリリウオカラニ女王が誕生した。 王党派の者達によって王の復権を目指す運動に危機感を抱いたアメリカ合衆国への併合派の十数名は、アメリカ合衆国の在ハワイ大使と協力し、1893年1月にアメリカ海兵隊を上陸させ、ハワイ王国を転覆、暫定政権を樹立させた。
暫定政権はアメリカへの併合を望んでいたが、アメリカ合衆国はそれを拒否したため、1994年7月4日に暫定政府はハワイ共和国として名前を変え、ハワイ王国は消滅した。